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2013-05-28

老兵は消えるだけか「小早川家の秋}

              小早川家の秋130527
              「秋日和」の親子が仲のいい義理の姉妹に

 小津安二郎監督の晩年の映画「小早川家の秋」(1961年、宝塚映画)を初めて観たのは、僕の21歳の時でおました。
 自分の住まいからちょっと遠い、いや、かなり遠い京都・高野にあった京一会館という、そのころ、関西では有名な名画座へ足繁く通っていたころのことで、まだ京都市内に市電が走っていたころでおます。
 『小津安二郎特集』の週であったのか、併映は「麥秋」(1951年)、「早春」(1956年)、「秋日和」(1960年)と「小早川家の秋」との超豪華というべきか、長時間というべきか、そんな4本立の番組で、すべて観ようと思えば完全に1日仕事でますな。
 もちろん、急ぐ用もない学生でおましたから、すべて観てクタクタになって帰宅したことを憶えとります。長時間の映画に観ることに疲れたのではおません。遠い道のりを通い慣れた名画座に行き、昼間の大半を映画小屋に缶詰になっていたら、いくら21歳の子どもでも体力勝負でおます。

 小津映画で僕が最も好きな作品は「麥秋」でおますが、この「小早川家の秋」も捨てがたい味がおます。だいいち、同じホームドラマでありながら「麥秋」のような厳しい緊張感を伴うこともなく、小津さんが掌中の珠を転がすかのように得意の分野を楽しんでいる気楽さがあり、それでいて多くの小津映画同様、将来への生命力を感じさせているからでおます。
 個人が映画を所有できるようになって以来、繰り返し観ている映画のひとつでもおます。





 二代目中村鴈治郎の洒脱なセリフ、動きが周囲の家族を「困った、お父ちゃん」と愛情を持って見守らせている兵庫・灘近辺にある造り酒屋の隠居の老人像に生き生きとしたリアル感を持たせており、このご隠居さん、人生の老後を養っているというより、残りの人生をワンパク小僧のように楽しんではります。関西で昔の商家に多く見られた「旦那はん」の典型でおますな。
 それは、小津映画のそれまでの作品に数多く見られた子どもの描写のようでおます。まさに、人間は老いて子どもに還るでおますやろか。


 既に現役を引退し、商売のことは長女(新珠三千代)の夫(小林桂樹)に任せ、身の回りの世話は長女にみてもらい、妻を先立たせているご隠居は悠々自適の毎日でおます。近ごろは昔なじんだ京都の女(浪花千栄子)と焼けぼっくいに火が付いたように仲良くなっており、家族、特に長女の目を盗むようにして京都の女のもとへ通ってはります。
 長女は「お父ちゃん、どこへ行かはるの?」とか「また京都でっしゃろ」とか、父親を問い詰めるような、皮肉るような口調で「しょうがないなぁ」と大きなワンパク小僧を持った母親のような感じで、それでも許してはります。長女の、家庭人としての心の余裕でおますな。もし、家庭内が火の車で、それでも父親が女遊びを続けていたら、文句言い言いしながらも身守る態度には出られしまへん。

 京都の女には娘(団令子)がおりますが、この娘さん、外国人の恋人と付き合ったりしており、しっかり鴈治郎はんにねだるものはねだっているチャッカリ娘でおます。鴈治郎はんは娘を目に入れても痛くないような感じで可愛がってはりますが、ある日、母親に「なぁ、お母ちゃん、うちの父親はほんまにあの人?」と訊ねた時の母親の浪花千栄子の返事が奮っております。
 「誰でもよろしがな」と言葉を濁し、娘が「欲しいもん買ってくれるから、おとうちゃんにしておこ」と言うと「そうおし、そうおし」と言いながら、せっせと廊下の拭き掃除なんぞしてはります。
 ここんとこの親子のやり取りは、スリルとサスペンスに満ちております。

 つまり、娘の父親が誰かについて浪花千栄子の答えは非常にファジーであり、その返事は長年、お水の世界に生きてきたらしいしたたかさがあり、それでいて映画は観客にはそれとなく鴈治郎はんが団令子の父親ではないことを感じさせてはります。
 別段、このやり取りは娘が自分の本当に父親を知りたがっているという深刻な意味合いはおません。それに娘を可愛がる鴈治郎はんも、娘は自分が浪花千栄子に産ませた子であるのかどうかを知っているのか、自分の娘でないと分かっているなら分かっていながら可愛がっているのかどうか、いずれにしろ、この京都のシーンは大人の諸事情が交錯している描写でおます。

 その鴈治郎はんが突然の死(心臓発作の予兆はあったにしろ)を迎えたことから、映画は一転し、よく言われているように小津の諦観の色合いが深くなっていきます。
 川べりで火葬場の煙突を見上げる農家の夫婦(笠智衆、望月優子)のやり取りに「世の中、輪廻転生」の小津流解釈が色濃く表れとりますが、それだけで終わっていたら諦観色だけの作品に終わっています。
 そこから将来への希望を見出すという意味で二女の司葉子の結婚への意思が描かれとります。
 小津映画に出てくる結婚について、多くのヒロインは秘かに想っている男性がいながら、あるいはいないとしても周囲の勧める縁談に沿うようにして結婚してはりますが、二女の司葉子は「麥秋」の原節子同様、自分の意思を貫いてはります。
 北海道へ転勤になった同僚(宝田明)との結婚の意思を固めた司葉子を応援する義理のお姉さんが原節子というのも小津映画の面白さでおますな。

 ここで、輪廻転生の小津流諦観が司葉子に代表されている未来へつなぐ若い生命力と同時に語られていることこそが、輪廻転生の意味を持っているというべきでおますやろか。



 
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