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2012-02-01

桑野通子のささやきは「有りがたうさん」

                  有りがたうさん120131


 森本薫の戯曲「女の一生」で、寸暇を惜しまずコマネズミのように働くヒロイン布引けいに対し、女主人が「誰も彼もが、お前のような心がけだと、どんなに生きやすいことだろう」というようなことを言うシーンがおますが、この映画の主人公のバス運転手(上原謙)がバスの行く手を歩く人たちを追い越すたびに「ありがとう、ありがとう」とさりげなく感謝の気持ちを口にしたら、この世はどんなに生きやすくなることだろうと、観終わった後、そう思わせてくれる作品でおます。

 清水宏監督が撮影所の外に出てオールロケで製作した1936年の松竹蒲田作品で、劇中にも触れられてますが、当時、まだまだ珍しかっただろうトーキー映画(タイトルに、わざわざ土橋式トーキーと出ています)でおます。もちろん、モノクロでっせ。
 名の知れたスターは上原謙と乗客の酌婦に扮した桑野通子だけ。劇中、バスの中から上原謙が話しかける路上の旅芸人のひとりに水戸光子が扮してますが、タイトルの扱いから察すると、まだ看板女優ではなかったころと推察されます。







 伊豆の港町から山越えして鉄道が走る町まで向かう路線バスが舞台でおます。
 運転手は、いずれ中古のシボレーでも買って乗り合い自動車の個人営業を夢見ている青年で、自分が運転するバスが道端の人たちを追い越していくたびに「ありがとう、ありがとう」と声をかけていくので、沿線の人たちから「ありがとうさん」と呼ばれています。

 劇中でも、この「ありがとうさん」が述懐していますが、たかだか数時間のバスの中でも、さまざまな人生がおます。身売りのために東京へ向かう娘(築地まゆみ)と最寄りの鉄道駅まで送って行く母親(二葉かほる)、保険外交員に行商人、婚礼や葬式に行く近在の村人たちのほか、酌婦のねえさんは酒の相手ばかりではなく、体も売っているらしい流れ者の女でおます。
 バスが走る街道は当然ながら未舗装であり、轍の跡が残る江戸時代まんまの道路で、雨が降れば、ぬかるむことは容易に想像できます。移りゆく山村の風景を見ていると、電線こそないものの、今でもちょっと山奥へ行けば70数年前とは変らない景色があるんではないかと思わせる風景でおます。
 学校帰りの子どもたちがバスの後ろに飛び乗る「薩摩守」こそ、もうおませんけどね。

 グランドホテル形式めいた掌編ながら、この映画、世情をたくみに取り入れとります。
 昭和11年ごろといえば、世界恐慌に巻き込まれた日本がようやく不況から脱したころでおますが、それでも田舎へ行けば、まだまだ苦しく、乗客たちの会話でも「いったん村を出ていけば、めったに帰ってくる者はいない」とか「なかなか借金が減らず、相変わらず苦しい」とか、そんな意味の愚痴が出てきとります。
 その象徴が身売り娘でもあるわけでおますが、これ、取り方によっては社会批判でおますな。会話だけとはいえ危ない話が出てきて、よく検閲をパスしたものだと驚きでおます。

 そして、遠景に現れる街道をテクテク歩く一団。彼らは朝鮮人労働者でおます。
その中のひとりの娘が「ありがとうさん」とは顔見知りらしく、最近父親を亡くした娘はあとに残していく父親の墓参を「ありがとうさん」に頼みます。娘の話から、彼らは道路工事に従事する労働者で、次の工事現場に向かう最中であることが知れます。しかし、貧しく、移動にもバスに乗れないため、仕方なくテクテク街道を歩いているのでおます。
 この娘との短いエピソードから、この時代、肉体労働の現場で朝鮮人労働者が多く従事していたことをうかがうことができます。

 身売りの娘は消え入りそうな感じで、バスの後部座席にいます。隣の母親は貧しい生活に疲弊していることに加え、娘を売らざるを得ないので元気がおません。この2人の構図だけで、十分、当時の世相を映し出しています。
 途中、「ありがとうさん」のバスとは反対に、港町のほうへ向かうバスと行き合います。そのバスには金持ちの父親に連れられ、東京見物をしてきた娘(忍節子)が乗っています。身売りの娘とは顔見知りで、東京へ行くと知って東京見物の娘は「ターキーを見てきたのよ。それからトーキーも。はっきり声が聞こえたわ」と土産話を語り、「あなたも東京へ行ったら、ぜひ見なさいよ」と勧めます。東京見物の娘は身売り娘の事情を知らないので、のんきにそんなことを言ってますが、身売り娘のほうは当然、物見遊山どころではおません。

 東京見物の娘の話を聞いていた酌婦と「ありがとうさん」のやり取りが漫才でおます。
 酌婦が「ねぇ、ターキーとかトーキーとかって何のこと?」と話を振ると、「ありがとうさん」は「ターキーが女なのに男の恰好をしてるから、トーキーは男なのに女の声を出すやつのことだろう」ととぼけた返答をしてはります。
 もちろん、ターキーとは男装の麗人といわれたレビュースターの水ノ江瀧子のことであり、トーキーは声の出る映画でおますな。発声映画を珍しがっているということは、長く弁士付きの無声映画が続いた後、ようやくトーキー映画が出現したものの、まだこのころは全国のすみずみまで広まっていなかったのですやろね。

 「ありがとうさん」は、身売りしていく娘が気になって仕方おまへん。娘のほうも「ありがとうさん」を意識しているらしく、身を縮めるようにして座席でいるのも、他人には言えない身売りのためばかりではなさそうでおます。
 バスに乗り込んできた時から、チラチラ身売り娘を見ていた酌婦のねえさん、とっくに気付いているようでおます。最初のころこそ、まだウブそうな娘の姿にかつての自分を重ね合わせるような視線でおましたが、バスが終点に近づいてきたころ、「ありがとうさん」の背中をポンと押すような一言を口にして、さすが苦労しているねえさんでおます。

 「ねぇ、シボレーを買うお金があったら、ひと山いくらの女がひとり減るのよ」

 ねえさん、恋のキューピットでおますな。
 娘の母親が乗客に羊羹を配った時、ねえさんはシカトされ、チクッと母親に皮肉めいた言葉を投げかけていますが、母親がねえさんを無視した態度、人にありがちなことでおますな。相手は体を売っているいやしい商売の女で、自分たちとは住む世界が違うといわんばかりの一線を画した慣習ですな。職業や生活の相違から、同性が同性を蔑視するのは今でも見受けられることでおます。
 殊に、この場合、母親は身売りする娘を伴っているので、この母親の態度は五十歩百歩やおまへんかと笑いそうになるのでおめすけどね。

 場面は翌日のバスの中に変わります。運転する「ありがとうさん」のすぐ後ろの席に娘が坐っとりま。そこは前の日、酌婦のねえさんがいた席で、横には母親が坐っています。ねえさんの姿はおません。娘は「あの人にお礼を言いたかったわ」とかなんとか言い、「ありがとうさん」も「渡り鳥だから、いつか戻ってくるだろう」と言っとります。
 省略法の効いたシーンで、絵を見ただけで、前日、バスが終点に着いてから、どういうことが起こったのか、これですべて分かりますな。前の日、ほとんどしゃべらなかった娘が「ありがとうさん」に話しかけるのに妙になれなれしい言葉遣いであることが気になりますが、まぁ、よろし。前の晩、この2人に何かあったんだろうかと邪推するのは、考え過ぎってものでおます。




 
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