2011-03-09

京都観光案内―続々日本映画の父祖を訪ねる(最終回)

阪妻墓碑全景110304


 化野念仏寺では吐夢地蔵に詣でる前に少し境内を歩いたのでおますが、観光客をチラリホラリと見かける中、人影の途絶えた一角に足を踏み入れた時、前方から若い女性が小走りに現れ、ボクたちの横を通り過ぎていきました。
 女性が現れた方向から、その後、のっそりと姿を見せたのがゴマ塩頭の長髪を無造作に見せた小太りのおっちゃんでおます。
 
 ムムム…何か事件か?? 刑事でもないボクたちは人影のない場所、小走りに駆けていく若い女性、小太りのおっちゃんという道具立てから、すぐに下ネタのほうを連想してしまったのでおます。単純ながらも、それほど想像力をかきたてる道具立てでおました^^
 おっちゃんはそれから独りで境内をウロついていましたが、後でボクたちが念仏寺を出て石畳の通りに戻った時、土産物店の店先をのんびりひやかしている姿を見かけることになります。お友達は「どこかの映画監督のロケハンちゃうか」などと言っていたものの、何やら見るからに正体不明のおっちゃんでおました。

 さて、念仏寺から宿場町のような石畳通りに出て、今度は来た道を戻っていくと、次に出会ったのは若いカップルでおます。男性は大学生らしいおますが、お友達さん、女性のほうは「見るからに女子大生には見えない」などと評しとります。振り返って見るとカップルは念仏寺に立ち寄るでもなく、さらに山手に延びる石畳の通りに消えていきましたが、何やらボクたちのテクテク歩きは京都に来て弥次喜多道中をやらかしているようでおます。

 来た時は途中で石畳のある通りに出たのでおますが、今度はその石畳の道をずっと辿っていき、今回の最終地となる二尊院を目指しました。
 そこに眠っているのは、剣戟の大スター、阪東妻三郎、田村正和のお父さんでおます。
 

 二尊院までの道のりは、右手に小倉山を望みながら途中に平清盛に愛された祇王や高山樗牛の小説にもなっている滝口入道、あるいは和歌の藤原定家などを祀る寺や史跡もある小径が続き、奥嵯峨散策にふさわしい静かなたたずまいでおます。
 もっとも、ボク自身はマップを見ながら歩く、この手の観光散策には全く興味おませんねんけどね(お友達さんも、ボクの興味のなさ―あるいは欠落というべきか―は認めてはります)。

 こうして辿り着いた二尊院では、総門受付で500円ナリの入山料を支払い、引き換えにミニガイドを貰って入ると、すぐになだらかな石段が出迎えてくれます。
この石段を上りきると本堂のある境内に至るのでおますが、この石段が時代劇の風景そのものでおます。今にも侍が出てきたり、奥女中の乗った塗り駕籠の行列が出てきそうだったりする眺めでおます。

 お友達さんは「ロケ地になっているんとちがうか」と言い、その時はわからなかったのでおますが、帰宅してから気になって調べてみると、1959(昭和34)年の大映京都作品「薄桜記」(監督・森一生、脚本・伊藤大輔)で主人公の丹下典膳(市川雷蔵)が妻(真城千都世)と別れるシーンのロケ地となっていました。あるいは、もっとほかの映画でも使われているかもしれまへん。

 目の先の正面に土塀がめぐらされた石段を上りきり、左手にある門を抜けると、本堂を目の前に見ながら右手に行くと道沿いに「板東妻三郎の墓→」と白いペンキで記した小さな案内板がおます。阪妻の墓を訪ねてくる人が多い証拠ですやろね。何やら観光めいて、たちまち気が失せそうでおますが、いや、この辺りは既に有名な観光地の中の存在しているのでおます。

 受付で貰ったミニガイドの中にも「板東妻三郎」となっていて、それをいち早く、お友達さんが「阪が板になってる」と見つけたのでおますが、これまで溝口健二や伊藤大輔、片岡千恵蔵などのほか、この日もマキノ省三・雅弘、内田吐夢の墓碑や記念碑を巡ってきた中で案内板という妙に親切なものがあったのは二尊院が初めてでおました。
 この観光案内では、それとなく寺を訪れ、数ある墓石が並ぶ墓地の中を探し回り、それでも分からなかったら寺の人に尋ねるということを繰り返してきたのでおます。もっとも、そのために寺の人から変な感じに受け取られるということも再三あり、寺側の応対もさまざまでおます。

 阪東妻三郎といえば、無声映画時代からのチャンバラスターとして知られており、同時代の嵐寛寿郎や千恵蔵、市川右太衛門などと並列して呼ばれる時、必ず筆頭に上がっているスターでおます。ほかのスターたちはかなりおっちゃんになってからの映画をリアルタイムで観てはおりますが、阪妻は1953(昭和28)年に51歳で早世しているため、当然、ボクは阪妻の映画をリアルタイムで観たことはおません。
 しかも、最初に観た映画が1943年に作られた稲垣浩監督の「無法松の一生」でおます。チャンバラ映画ではおません。その次に観たのが伊藤大輔監督の「王將」(1948年)で、さらに木下恵介監督の「破れ太鼓」(1949年)と続きますが、これまた、どちらもチャンバラ映画ではおません。

 殊に「王將」や「破れ太鼓」は太平洋戦争後、日本を占領していたGHQの占領政策でチャンバラ映画の製作が禁じられていた時代の作品でおますが、戦前からのチャンバラスターたちがチャンバラ以外の映画で苦慮していた中にあって「無法松の一生」と合わせた3本の映画は阪妻がヅラ(鬘)を付けない映画に演技者として新境地を見出した作品として有名でおます(「無法松の一生」ではチョンマゲではない鬘を使用しとりますが)。

 チャンバラスターとして名を成した阪東妻三郎入門の映画がチャンバラ映画でなかったというのも異な話で、しかしながら同時代に生きていないので仕方おません。
 後になって二川文太郎監督の「雄呂血」やマキノ正博監督の「血煙高田の馬場」(稲垣浩との共同監督となっていますが、諸般の事情で名義貸しのようでおます)などの戦前の時代劇、GHQ占領下で阪妻が押し寄せる捕り方の群れを相手に閉じた扇だけで殺陣を見せる伊藤大輔監督の「素浪人罷通る」(1947年)、飄々とした持ち味が生かされた伊藤大輔監督の「おぼろ駕籠」(1951年)などを観ることになりますが、入門映画がチャンバラでなかったせいか、阪妻ときて、すぐに頭に浮かぶのは無法松であり、坂田三吉であり、専制君主のようなガンコ親父でおます。
 阪妻のチャンバラスターとしての現役時代を知る人たちに比べ、これは埋めようのない「時代の差」でおますな。

 そんな阪妻のおじさんは、二尊院境内の片隅、樹齢何百年かの巨木の根元に「田村家累代墓」と刻まれた墓石の下に眠ってはります。
 阪妻は本名を田村傳吉といい、その墓石は阪妻自身が1944年に建立したものであることが墓石に記されています。墓地の脇に立つ墓誌には阪妻の両親、本人、その夫人、幼くして亡くなったらしいきょうだいの名前と旅立った年月日が刻まれています。末尾には長男、田村高広の名前もあり、その未亡人もつい数年前に亡くなっていたことも墓誌からうかがうことができました。
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