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2010-12-24

「武士の家計簿」に小津を見る

武士の家計簿101222


 ボクにとっては2003年の「阿修羅のごとく」以来の森田芳光監督の新作映画「武士の家計簿」は、父と子の関係を描いた映画でおました。まるで小津安二郎監督の「父ありき」(1942年)でおます。

 時代劇映画といえば、チャンチャンバラバラする作品が多い中で、刀で主君に仕える武官ではなく、一藩の経済にかかわる経理を担当するソロバンで仕える下級文官というのは文字通り、アイデアであって、そこは面白く観せていますが、この映画はあくまでも主人公(堺雅人)と、その長男(大八木凱斗、成長後は伊藤祐輝)のお話でおます。

  主人公の一家は4世代同居の大家族でおます。主人公の猪山直之には妻の駒(仲間由紀恵)と長男の直吉と後に生まれる長女がいます。ほかに直之にとっては祖母にあたるおばばさま(草笛光子)と父の信之(中村雅俊)、母の常(松坂慶子)がおり、ひとつ家で暮らしています。
 今でこそ、核家族化が進んだ果て、独居生活者が徐々に増加していますが、映画のこの家族数、これって昭和40年代くらいまでは普通に見られた家族構成ですよね。
 小津映画でいえば「麦秋」(1951年)ですな。もっとも、こちらは三世代同居ですが。

 もちろん、これは状況設定の背景であり、重要なのは父と子でおます。といっても、主人公の直之と父の信之との関係ではおません。直之と長男の直吉の関係ですな。
 直之の父親、信之は軽輩ながら実直な武士でおます。直之も父親譲りの実直な人柄に加え、己の信念を貫き通すというガンコ者でもおます。そのため、一時は左遷されかかったりもします。
 直之は息子の直吉が4歳になった時、かつて自分も父親から授かったように直吉に彼流の英才教育を施しにかかります。読み書き、ソロバンができなくては親の跡を継ぐことはできないというわけでおます。そこに加えて、直之はまだ幼い直吉に日々の食料品購入の出納を任せます。任せて一銭の狂いでもあれば、厳しく追及します。

 幼い直吉はいい加減、うんざりしています。ある時、四文の不足金が出て直吉はたまたま川べりで拾った四文で帳尻を合わせます。不審に思った直之は、そこを追及し、拾った場所に戻してこいと命じます。それに反抗した直吉を殴り飛ばし、止めに入った妻をもしりぞけ、夜陰、直吉ひとりで川べりに銭を戻しに行かせます。
 厳しいお父ちゃんですな。でも、ここは唯一、感動するシーンでおます。
 ごまかしがあってはいけない、まして、金銭にかかわることであればなおさらで、不足分をほかから調達しても、なおかつ不足分は不足分のままで何ら解決はしていないという父親の哲学を子どもにたたき込む場面でおます。

 このシーンで、ふと「父ありき」のにおいを感じたのでおます。
 「父ありき」は、やもめ暮らしの父と子の話で、息子が成長すると別々に暮らすようになりますが、その父親が亡くなると息子は有形、無形の父親の愛情をしのぶというのがミソでおます。
 形は違っても、「武士の家計簿」でも同じことをやってるんですな。父親の生き方がどんなに地味であっても、将来、子どもがどういう生き方をするにせよ、人としてのあり方、考え方を殴り飛ばしてでも教え込む。今はどれだけ希薄になっているのかは知りまんが、かつては世間にゴロゴロしていた父から子へ生き方を伝える親子のつながりでおます。

 直之が直吉を殴り飛ばした時、直吉は右のこめかみに傷を負い、それが一生傷として残ります。
 映画の最後で、年老いた直之が久しぶりに帰郷した直吉に背負われ、かつて直吉が銭を拾った川べりを歩くシーンがおます。そこで、背負われた直之はかつて自分が傷つけた息子の一生傷を見て、息子の耳元で謝ります。しかし、それはいささか蛇足であったように思ったのですが、どうですやろ?
 

 

 





 ところで…。
 最近の、というより、もう随分長い間になるけれど、日本映画も外国映画同様、キャスト、スタッフ紹介のクレジットタイトルは映画の中身の終了後、画面の下から上へ流れるロールクレジットが慣例化されていますが、あれって、いつごろから慣例化されたのですやろね?

 かつては映画の冒頭、中身が始まる前に、あるいは物語の進行に合わせて画像に重ねてスタッフ、キャストが紹介されていました。それが、次には映画の冒頭、主要キャスト、スタッフだけが紹介され、物語の終了後、改めて全スタッフ、キャストのタイトルが流れる方式(中には最初に紹介した人たちは最後の紹介ではカットしているセコい映画もおましたが^^)になり、そして現在のような紹介法が定着しとります。

 まぁ、上映開始時間に合わせて客席に集まった観客を一刻も待たせたらアカンという製作サイドの「優しい心遣い」なんですやろうけど、なんとか製作委員会だのパートナーズだののタイトルが仰々しく出た後、その映画の題字タイトルもそこそこに映画が始まるわけでおます。

 でもね…。
 現行の映画の始まり方だとポスターや宣伝チラシに載っている主だった出演者以外、いわゆるワキを彩る出演者に関して、どんな俳優が出ているのか、いっさい分かりまへん。
 スタッフの方は宣伝チラシでも見れば、家電や生命保険の保証書並みの小さな活字であるものの、おおまかなパートの人たちの名前が記載されるようになったのはええことでおますが、俳優の方は映画の進行に合わせて「OOが出てる」と確認しながら観たり、あるいは最後の紹介タイトルで初めて「OOも出ていたんや。ええ、どこに出てた?」となることもしばしばでおます。

 相変わらず、絵さえ観れば後の文字はどうでもいいのですやろ、最後のクレジットタイトルが流れ始めると、そそくさと席を立っていく観客が多い光景、あれはもう映画館でも活字離れが進んでいるとしか考えるよりほかありませんな。

 「武士の家計簿」には、主人公の妻が娘を出産するシーンに産婆さん(助産婦)が登場します。わずか2場面の、アップもない短いシーンでおますが、最初、この産婆さんが出てきた時、誰やろ? と思いました。ちょっと小太りの、昔の松竹のおばさん女優、岡村文子によく似ていた女優さんでおます。
 そして迎えた最後のキャスト、スタッフの紹介。タラタラ流れるタイトルを眺めているうち、「あっ}となり、「へぇ…」となりました。あの産婆を演じていた女優は小林トシエでおました。

 小林トシエ。浦山桐郎監督の映画「私が棄てた女」(1969年、日活)で主人公の大学生(河原崎長一郎)に捨てられる方のヒロインを演じていた女優さんでおます。このところ、映画やテレビで見かけることがなかったので、ちょこっと出演ながら「あっ」となり、「へぇ…」となったのでおます。 
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確かにいい映画ではあったけど、小津は言い過ぎではないでしょうか?

それにしても森田芳光あざと過ぎ。『家族ゲーム』にはじまり、『それから』『阿修羅のごとく』と、えんえんと家族の崩壊を描いていた人が、ふと心変わりしたのか、時代の流れにのってみせたのか…。

小林トシエは気づかなんだ。

エンドタイトルは、最近はうっとおしいバラード風の曲が流れるので、日本映画の場合、さっさと出てしまうのですが、さすがに『ノルウェイの森』は最後まで付き合いました。

あの映画の一番いい所じゃないか。ビートルズの曲の流れるエンドタイトルは。でも、びっくりしたことに、それでも、さっさと出て行く人がいた。

といっても、『悪霊島』なんて、すさまじくつまんない映画もありましたが…。

柿を持っていった友人さんへ

そうでしょうか。何も森田芳光が小津を意識してつくったというのではなく、あの父から子への人生の伝授を観ていて、ふっと「父ありき」が思い出されたんですけどね。
個人それぞれの好み、考えでしょうが、ボクはいつも最後のクレジットタイトルは付き合ってます。でもね、これがあまり映画にくわしくない人と同行した時は困るんですよね。相手はタイトルが始まると、帰り仕度を始めるもんで^^
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