--------

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
2011-02-28

「私家版加藤泰論への道」8 錦之助との出会い

濡れ髪二刀流

 
 映画技術の進歩で今や、3Dが大はやりですが、あれって、どうなんでしょうね。
 画面から人間が、あるいは怪獣たちが飛び出してくるような感覚が楽しめるということですが、正確には3D用の機材を使って撮影された映画を例の眼鏡越しに観るというのならともかく、中にはこのブームにあやかって、そうでない映画まで観客に眼鏡を使わせて「はい、いらっしゃい」と呼びこんでいるものもあるようで、何でもかんでも銀幕のこちら側に飛び出してくりゃいいっていうものでもないんですが…。

 今から半世紀以上前の1957(昭和32)年、この年も日本映画は技術革新の時代を迎えていました。
 映画の画面が、それまでのほぼ正方形だったスタンダード画面から横へグーンと広くなったワイド画面(シネマスコープ)へ移行していく時代で、他社に先駆けていち早くワイド画面の製作に乗り出した東映が、日本映画最初のワイド画面の第1弾(東映スコープ、総天然色)として、その年の4月に時代劇「鳳城の花嫁」(監督・松田定次、主演・大友柳太朗)を封切ました。
 当時のキネマ旬報などを読むと、ワイド画面の映画を製作するにあたり、松田監督や撮影を担当した川崎新太郎などが映画評論家たちとワイド画面を巡る話し合いをしています。その中で、しきりに難しく考えがちな評論家たちに対し、監督としてワイド画面映画のトップバッターを担うことになった松田定次が「画面が広がるからといって特に気にすることはない」というようなことを気負うことなく淡々と述べているのが印象的です。

 東映は「鳳城の花嫁」の封切以後、当面は毎週、従来のスタンダード映画とのカップリングでワイド画面映画を封切っていきますが、次に封切られたのは現代劇映画としてのワイド第1弾(モノクロ版)「第十三号棧橋」(監督・小石栄一、主演・高倉健)でした。そして、その次に封切られたのが時代劇のワイド映画第2弾(モノクロ版)となる中村錦之助主演の「源氏九郎颯爽記 濡れ髪二刀流」です。
 監督は、東映映画2作目の加藤泰でした。


 

 
 「源氏九郎颯爽記 濡れ髪二刀流」は原作・柴田錬三郎、脚本・結束信二の、火焔剣、水煙剣という源義経伝来の二振りの刀を巡り、義経の末裔だというゾロリとした白無垢の着流し姿で旅する謎の若侍、源氏九郎(中村錦之助)を中心に彼を兄の仇と狙う武家娘(田代百合子)や九郎のホの字になる女賊(千原しのぶ)、そのほか、火焔剣を狙う勤皇の志士や悪徳商人たちが入り乱れて刀の争奪戦を繰り広げる大チャンバラ映画です。
 中村錦之助主演の「源氏九郎颯爽記」は3本作られており、翌1958年の同じ加藤泰監督「源氏九郎颯爽記 白狐二刀流」の後、1962年には加藤泰の師匠筋に当たる伊藤大輔監督によって源氏九郎が背中ににぎやかな刺青を背負ったやくざ者に化けて貧民たちのデモを扇動するという、チャンバラに生世話物の香りを漂わせた最終作「源氏九郎颯爽記 秘剣揚羽の蝶」が作られています。 

 かつて、東映京都の撮影監督だった吉田貞次にインタビューした時、「あのころの加藤さんの映画って正直、面白くないもんなぁ。でも、努力ですよね。加藤さんにしたって深作(欣二)にしたって決して天才じゃない。努力してたんですよね」というようなことを言っていたことがあります。

 吉田貞次は、内田吐夢監督の復帰第1作「血槍富士」(1955年)以来、東映時代劇ではよく内田吐夢とコンビを組んだカメラマンで、中村錦之助主演の「宮本武蔵」シリーズでは1作目(1961年)以来の撮影監督、坪井誠を嫌った内田吐夢の指名で3作目「二刀流開眼」(1963年)以降、最終作「巌流島の決闘」(1965年)まで参加したことはよく知られています。また、後年、東映実録やくざ映画の名作とされている深作欣二監督の「仁義なき戦い」シリーズ5部作(1973~75年)で撮影を担当したカメラマンで、だから、インタビューの中で深作欣二を懐旧する言葉が出たと思われます。

 吉田貞次が語った「あのころ」とは、つまり、加藤泰が東映時代劇の監督として参加した初期のころを指しています。

 加藤泰はずっと後になって「自分の映画」ということに対して「監督の名前がわからなくても画(え)を観れば、あっ、あの監督ってわかるような映画を目指しているんですけどね…」と語っていますが、実際、初期のころの加藤泰の東映時代劇は、のちに見られるようになる「あっ、あの監督!」とうなづけるような光彩を放っているわけではありません。むしろ、快い流れに乗って観客がカタルシスを覚えるという映画的なリズム感からすれば、退屈な流れでしかなかったとも言えます。
 この退屈な流れは加藤泰の創作意欲のなさでは決してなく、「剣難女難」2部作(1951年)で本格的に映画監督として歩み始めた加藤泰がまだ「自分の映画」なるものを掴むに至っておらず、それを模索して時期ではなかったかと思われます。
 同時に、東映流の時代劇の作り方に歩調を合わせていた時でもあったと考えられます。東映流の時代劇の作り方―監督は誰でもいい、要するに主演スターが目立ってファンの喝さいを浴びるような映画で、映画会社を儲けさせてくれるような映画、です。のちのち、この点で加藤泰はトラブルメーカーのようになっていくわけですが…。

 映画会社所属の監督であるため、演出する作品は会社お仕着せの企画であることは否めませんが、この時期、添え物作品ではなく、大友柳太朗や中村錦之助、あるいは大川橋蔵など看板スターを主演に据えたメーン作品を担当していた監督であり、番組供給の万全を期すために迎えられた期待の新入り監督だったことは想像できます。
 中村錦之助主演のチャンバラ映画「源氏九郎颯爽記 濡れ髪二刀流」という、モノクロ版ながらワイド画面第2作の時代劇を任されたことは、当時のローテーションシステムから偶然、担当するようになったことかもしれません。しかし、自らも「人のできることをやれんというわけがあるかい。何でもやってやれという気はあった」と言っているように負けん気があった監督ですから、使用した撮影機材のトラブルがあったものの、ワイド画面に対する興味と挑戦をもって臨んだことも容易に想像できます。

関連記事

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

プロフィール

青山彰吾

Author:青山彰吾
 日本映画を中心にしたコーナーです。
 ただし、取り上げる映画は偏っています^^
 
 

最近はこんなんです^^
ゲストのひと言
テーマ紹介
FC2カウンター
全記事表示リンク

全ての記事を表示する

在庫の記事
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。