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2010-09-22

まだ若かったんやね「櫂」

櫂2


 毎日毎日、テレビのCSチャンネルを開けば1人では観きれないくらいの量の映画が放映されていますが、CSの受信料も支払っているのに、なぜか、ほとんど、その放映時間に映画を観たことはおまへん。

 それが何をトチ狂ったのか、先日の休日、じっくり観ることになったのが1985年製作、封切の東映映画「櫂」(脚本・高田宏治、監督・五社英雄)でおました。
 あのころの東映映画は当時、若手女優ナンバーワンだった夏目雅子がラストで「舐めたらいかんぜよ!」と哀しく啖呵を切る1982年の「鬼龍院花子の生涯」(監督・五社英雄)が大ヒットして以来、「鬼龍院花子の生涯」の原作者、宮尾登美子の小説を映画化した女性文芸大作真っ盛りの時代でおました。

 「櫂」もその1本で、宮尾登美子の土佐物でおます。
 これがなんと25年も経ってから再び観ると、すごく面白かったのでおます。公開当時はよく分からなかった男と女の微妙なアヤが、観る方も25年もトシ取ってます、理解できるようになってたんですな。
 あのころ、ボクも若かった…となった一篇でおます。


 宮尾登美子が人気作家となった一連の土佐物小説「陽暉楼」「櫂」「寒椿」「岩伍覚え書」などは、すべて高知の色街を舞台にしています。
 それぞれに関連性はないものの、一貫して登場するのが富田岩伍という男でおます。
 この男の職業は女衒です。芸妓娼妓紹介業ですな。つまり、人身売買ブローカーでおます。
 ブローカーといっても、この男はただ女性を右から左へ売り渡してカスリを取って、それでおしまいという性悪ブローカーではおません。そのあたりは、年老いた岩伍の思い出話としてつづられる「岩伍覚え書」に紹介業者としての、この男なりの姿勢が活写されています。

 いろいろな書物を読むと、宮尾登美子自身の父親が高知で芸妓娼妓紹介業者であったことから、そこで見聞したさまざまなエピソードが宮尾登美子の土佐物小説の基盤になっていることは想像に難くおません。
 身を売らなければならなかった女たちの境涯、その女たちにからんでくる色と欲の男たち、そんな男女を形成する色街の人間たち、おまけに色街の利権に巣食う土地のやくざたち、そして芸妓娼妓紹介業者を夫に持つ、あるいは父親に持つ妻や子どもたちが入り乱れて、小説群は作家らしい透徹した視線で男と女の世界が描かれています。

 まさにドラマにするにはおいしい世界でおます。時代劇、アクション、任侠物で売ってきた東映が、この題材に飛びついたのも、さもありなんでおますな。

 「櫂」は、そんなドロドロの世界に生きる岩伍(緒形拳)の家族、とりわけ、岩伍と色街の世界とは縁がなかった妻の喜和(十朱幸代)との数十年に及ぶ確執のドラマでおます。
 岩伍はかつては素人相撲で優勝したり、やくざの世界の淵にも身を置いて高知で暴れてきた末、女衒として渡世し、女出入りも激しい男でおます。喜和は夫との間に2人の子どもに恵まれた上、他人が産んだ子どももわが子のようにいつくしみながらも、そんな夫の生き方をどうしても承認できず、何度も別居しては同居を繰り返す、気性の激しい女でおます。

 女衒ながらも「あっぱれ、男よ」と高知の人間どもに見せつけたい岩伍にとって、喜和は自分の生き方の足を引っ張る女房なんですな。いったん喜和との夫婦仲がこじれてしまうと、訳知りの料亭の女将(草笛光子)らがどう説得しようと、岩伍が何回も襟首を掴もうとも、喜和は納得できなければガンとして応じまへん。
 だったら、とっとと離婚してしまえばよさそうですが、岩伍は喜和を手放す気はなく、喜和も別居こそすれ最後の最後まで別れようとはしまへん。時と場合が違えば、きっと夫婦仲のいいカップルになっていたはずなんでおますな。

 女の売り買いを生業にしているため、岩伍は自分が賤しい人間と見られていることを認識しています。知己を得た造船会社の会長(島田正吾)が料亭の女将に言ってますな。「下等な人間だが、信用してもええのかの?」と。ところが、この会長さん、後年、岩伍が高知に大きな診療所を建設し、周囲をあっといわせるに及んで、町の実力者たちに「これで市会議員に推挙しても大丈夫じゃな」とホクホク顔を見せるいい加減さでおますが、人の評価って、こんなもんでおますな。

 結局、最後は喜和の強い意思で岩伍とは相いれないまま、映画は終わります。
 岩伍が義太夫語りの女(真行寺君枝)に産ませた女の子を10年育てさせられ、その女の子(高橋かおり)を岩伍に取り上げられたことで喜和の決意は固まります。
 一方の岩伍クン、遂に自分の元に女房が戻ることはなかったことで、自室に自慢げに飾ってあった若いころの相撲優勝の写真や表彰状を入れた額をたたきこわしてマグマのような怒りに燃えますが、これ、単なる怒りではおませんね。泣くこともできない岩伍の悲しみででもおますな。

 岩伍クン、義太夫語りの女になじんでいたころ、その女相手に自分を捨てた母親への憎しみを昔語りするシーンがおますが、岩伍にとって喜和は母親のような女でもあったんですな。自分が外でどんなことをしていようとも、喜和だけは決して自分から離れていかない女だと思っていたんですな。だからこその悲しみでおます。
 同時に職業柄もあり、右から左へ女を自由に動かしていた岩伍にとって、唯一、喜和は自分の自由にならなかった女なんですな。だからこその怒りでおます。

 こんなこと、25年前の子どもにはわからしませんでした。
 あのころ、ボクも若かった……。
 
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