2018-06-12

ひばりチャン頑張る

                       ふり袖小判
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 日々、現実に起こる出来事を連続ドラマのように眺めているといっても、間隙をぬってテレビで放映されている映画はちょこっと見ております。そんな中で5月に観た作品群を拾っていくと……。
☆ひばり捕物帖 かんざし小判(東映京都、1958年、監督・沢島忠)
 かつて東映時代劇のヌーベルバーグと騒がれた新鋭(当時の)沢島忠監督によるひばり映画でおます。
 老中(尾上鯉之助)の妹で探偵好きの姫君(美空ひばり)が阿部川町のお七として岡っ引き姿で江戸の町を徘徊し、巻き起こる殺人事件に得意の推理を働かせて難事件を解決するという映画で、ひばりの捕物映画は東映時代劇のモノクロ時代からおましたが、総天然色、ワイドスクリーンの時代になって「ひばり捕物帖」として新装開店、才気あふれる沢忠監督がミュージカル仕立てで演出したシリーズ第1作でおます。
 美女のかんざしにからむ連続殺人をひばり扮する阿部川町のお七親分が解明を進めていくお話でおますが、のっけからひばりが歌い、踊り、満場のひばりファンを満足させる趣向でおますが、ひばりは歌や踊りだけでなく、女河内山として大名屋敷に乗り込んだり、次に命を狙われる歌舞伎役者の代わりに弁慶を演じたりと、ひばりは八面六臂の活躍でおます。これにお七のお守り役として東千代之介の喧嘩や浪人が加わり、2人が居酒屋で歌って踊るおまけ付きでおます。
 
2018-06-03

『鉄砲安の生涯』と浦路洋子

                        浦路洋子2


 なんだかんだと言っても、現実のほうが映画より面白おますな。
 このところ、少し時間ができたので、溜まっているDVDの映画をこの際、観てしまおうと目論んだのでおますが、とんでもない!
 毎日、1年以上もなんだかんだとうそをつきあっているモリカケ問題や大学の本体にも波及しているアメフト部問題などテレビのニュースやワイドショーをにぎわせている現実の出来事の数々から目が離せず、DVDどころやおません。まるで連続ドラマを毎日観ているようで、日々変わる内容に目を離せまへん。

 というわけで、その忙しさをかいくぐって観たのが、勝新太郎主演の1962年製作の大映映画『鉄砲安の生涯』でおます。
 脚本は時代劇のベテラン、八尋不二、監督は戦前からのプログラムピクチャーの雄、木村恵吾でおます。
 明治中期、訪日したロシア皇太子の襲撃事件(大津事件)で皇太子の危機を救った人力車夫のお話で、勝新太郎扮する琵琶湖畔の大津の町で人力車夫の安五郎、酒ばかりくらってろくに仕事もしない暴れん坊、といえば『無法松の一生』の松五郎うぃ彷彿させますが、安五郎は未亡人に恋した松五郎よりも悲惨な人生を送るのでおます。
 安五郎にはや片想いする未亡人はおりません。結婚した女とは当初からソリが合わず、そればかりか妻には結婚前から恋人がおり、あまつさえ、その男との間に子供ができます。同郷の幼馴染もいるのでおますが、顔を合わせば口喧嘩ばかりで本当は嫌いではないのに距離の近さが災いして、いつもすれ違いばっかで、とうとう幼馴染の女もほかの男と結婚してしまいます。

 この安五郎の妻になる女性に近藤美恵子、幼馴染の女性の浦路洋子という当時の大映時代劇で市川雷蔵や勝新太郎の相手役を多く務めた女優が配されとります。近藤美恵子は第二の山本富士子と評されたほどの美形で、おしとやかな姫君や武家娘を演じた、どちらかといえばちょっと冷たい感じのする美人でおました。
 一方の浦路洋子は近藤美恵子とは対照的で、おきゃんな、勝ちj気な武家娘や町娘を多く演じておりますが、いずれも62~63年ごろにスクリーンから姿を消し、後進の女優として藤村志保や高田美和にスクリーンの座を譲っております。
 この作品でも近藤美恵子は安五郎の妻、浦路洋子は幼馴染の娘を演じておりますが、近藤美恵子は安五郎と離婚となって途中で消えるのでおますが、注目すべきは浦路洋子でおます。
 ロシア皇太子の難を救った安五郎にはロシアから莫大な報奨金と年金が贈られますが、元来が無知蒙昧を絵に描いたような安五郎には金額の価値さえ分かりまへん。それでも故郷のぼろ家を豪壮な邸宅に建て替え、懐手の生活を送るようになります。そうなると、安五郎の金目当てで周辺の有象無象が近づいてくるのは世の常で、もっとも熱心なのが三島雅夫扮する村長でおます。自分には県会議員に進出するもくろみがあり、安五郎の金を選挙資金に充てようとして安五郎を選挙参謀に仕立てて見事、県会選挙に当選します。金の力とは恐ろしいもんでおますな。現代では厳しく取り締まられておりますが、日清・日露戦争の時代はもう選挙は金次第はユルユルでおます。
 村長との縁ができて安五郎は村長の娘を嫁にもらうのでおますが、毎日酒をくらうことしか能のない安五郎に妻となった村長の娘はいっぺんいいやけがさし、一度は実家へ戻るのでおますが、安五郎の金が目当ての村長は娘を安五郎の元に戻し、その代わり娘と自分の不倫には目をつむった結果、娘と書生の間に子供ができてしまいます。いったんは自分に子供ができたと喜んだ安五郎、子供が自分の子でないと知った上で、意地でも子供を渡さず、自分で育てていきます。
 ロシア皇太子を助けた当座は安五郎も英雄と持ち上げられ、いい気になっていたのでおますが、その後、襲撃犯の津田三蔵(丹羽又三郎)の裁判が死刑から懲役刑に減刑されるに及び、安五郎を持ち上げていた世間の雲行きが変わってきます。日清戦争が起こり、その10年後、日露戦争が起こるに及び、かつての英雄はロシアのスパイとまで言われるようになり、ついには国賊呼ばわりされて世間の目は日増しに安五郎に冷たくなっていきます。
 そんな世間の目を見返すため、「俺は日本の男じゃ」と憤った安五郎は日露戦争に参戦すべく村役場に掛け合うyのでおますが、すでに安五郎も45歳、兵士となれる年齢ではおません。「兵士になれなくても戦争の人夫くらいにはなれるじゃろう」という役場の声に安五郎は幼い子供を連れて雪の中、歩いて連隊のある福井を目指します。
 いくら無知蒙昧であっても、大津近在の田舎から福井方面への鉄道はなかったんかいな、鉄道はないにしても乗り合い馬車はあるじゃろうと、ここは突っ込みどころでおます。滋賀北部の豪雪の中を徒歩で子供連れでというのはあまりにも無謀でおますが、ここは安五郎の悲劇性を増すための手段として目をつむっておきます。



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2017-05-21

地味だけど女優競演が凄い「女囚と共に」

                        女囚と共に 170515-1

 これまた、すんごい女性刑余者の映画でおます。
 田中絹代、原節子、香川京子、久我美子、岡田茉莉子、木暮実千代と主演級の女優が並び、そのほか浪花千栄子、安西郷子、谷洋子、杉葉子、淡路恵子、中北千枝子、千石規子、滝花久子、清川玉枝、本間文子、菅井きんと、脇の女優もそろてます。
 1956年の東京映画、東宝配給の久松静児監督、田中澄江脚本による『女囚と共に』でおます。
 同じ年、東宝は成瀬巳喜男監督の『流れる』を封切っており、こちらも田中絹代、山田五十鈴、高峰秀子、杉村春子、岡田茉莉子、栗島すみ子などが競演し、『女囚と共に』は『流れる』に比べると監督のせいか、あまり注目はされてまへんが、それにしてもスター女優、実力派女優を並べた映画って、当時の日本映画の底力を感じさせ、それだけで圧倒されますな。

 今、テレビの昼の帯ドラマで浅丘ルリ子や加賀まりこ、八千草薫、有馬稲子などが共演している『やすらぎの郷』がえらく評判になっとりますが、かつての日本映画はそんな比やなかったんでおますな。今はすっかりかつてのお株をテレビ局に取られた格好の日本映画に、
これだけの勢いを望むべくもあらしません。
 映画産業としての形は既になく、既存の映画会社が自社製作の力をなくし、○○委員会製作の映画の配給に奔走する日本映画界、そう呼ぶのも恥ずかしいくらいで、資金源枯渇、役者陣払しょくの今、日本映画は危機に瀕しているのでおます。
2016-10-16

毛利菊枝と『ぼんち』

                       ぼんち161019


 映画館へ足を向けることがなくなり、随分な時間が経ってます。今は映画館と表現するより、シネマコンプレックス、通称・シネコンと言ったほうがぴったりの時代でおますな。かつてのような床がコンクリート打ちっぱなしの、快適設備は置いてけ堀のような寒々とした映画小屋は日本からほとんど姿を消し、上映の間の数時間を過ごしても少しも苦にならないような、アメリカ仕込みの映画小屋(小屋と表現するには失礼でおますけど)に映画興行界は変身しとります。
 冬期、体が冷えて映画の途中で尿意を催しても我慢して映画を観ることをむさぼっていた時代ではなくなり、快適空間で映画を楽しめる時代になったというのに、その途端、にわかに映画小屋から足が遠のいてしまった。今こそ快適に映画を観ることをむさぼれる時代になったのに皮肉なものでおます。
 この9月、例の文化庁主催の優秀映画鑑賞推進事業、平たく言えば文化庁の田舎回りの巡回上映会に参加しました。観た作品
は市川崑監督の『ぼんち』(1960年、大映京都)、『おはん』(1984年、東宝映画)、『野火』(1959年、大映東京)の3作品でおました。上映プログラムには、これに加えて1965年の『東京オリンピック』がおましたが、これは諸般の事情からカットしました。
 振り返れば、映画上映設備のある場所で、大きな画面に映し出された映画を観たのは、まるまる2年ぶりのことでおました。その2年前も今回と同じく巡回映画の時で、かつては毎月、数えるのに10本の手指では足りないくらい映画を観ていたころに比べると、何という変わり様でおますことか。
 今の映画に魅力を感じなくなったのか。そうですねん。
 おサイフ事情が許さなくなったのか。そうですねん。

 映画小屋から離れた個人的理由はいろいろとおます。と同時に、およそ40年間、愛読してきた映画雑誌(キネマ旬報)の購読もぷっつりやめてしまいました。購読をやめてみて新作映画の細かい情報を得なくても、わが生活に何の痛痒も感じなくなっている自分をみて、愕然としたこともおますが、今や現代の映画情報から最も遠いところにいるのも事実でおます。
 これから先、映画小屋に足を向けることはあるのか。それは分かりまへん。

 『ぼんち』
 新聞記者から小説家に転身した山崎豊子の小説の映画化でおます。初期の山崎作品の特徴である自分が生まれ育った大阪・船場の世界のお話で、何百年と古いしきたりを守ってきた大阪商人の街、船場は戦後のめまぐるしい経済戦争の中で消え去り、船場という名前は今では町の名前でしか残ってまへん。それも30数年前の大阪市の地区名変更で、死語から甦ったような命名で、オフイス街となっているものの、雑多な街になっております。
 映画の舞台は、その船場の最後を見届けた足袋問屋の老主人(市川雷蔵)が、売れない中年の噺家(中村鴈治郎)を相手に、過ぎてきた自分の半生を物語るところから始まります。
 「ぼんち」とは、坊ちゃんという意味の船場特有の呼び名で、ただの坊ちゃんなら単に「ほんぼん」でおますが、遊びでも商売でも一本筋の通った生き方ができへんと「ぼんち」とはよばれまへん。原作でも語られていますが、「女に騙されても男に騙されたらアカン。それに遊んでいても人にものを考えさせるような生き方でないとアカン」と誠に難しいものでおます。
 三代、女系家族が続いた足袋問屋に久しぶりの跡取り息子として生まれたぼんちの雷蔵の女性遍歴のお話で、外に作った愛人たちで苦労するより、本当の敵は女系三代を誇り高いプライドで生きてきた祖母(毛利菊枝)と実母(山田五十鈴)で、直径親族を相手に苦労するという皮肉なお話でおます。
 雷蔵を取り巻く女優陣がすごおます。祖母と母親にいびりだされる妻に中村玉緒、愛人となる女たちにはちゃかり屋の芸者の若尾文子、競馬狂のホステスに越路吹雪、落ち着いた物腰の中居頭に京マチ子、子どもを残して早世する芸者の草笛光子などなど、さながら当時のトップ女優たちの競演でおます。これに原作ではもう一人、一番年若い芸者のタマゴが出てきますが、映画ではカットされとります。適当な女優は見つからなかったのか、多く女が出れば混線気味になるので、あえてカットしてしもうたのか。

 女優の花の競演でおますが、これらの中で最も強烈に印象を残しているのが毛利菊枝のおばあちゃんでおました。関西新劇界のボス的存在。今や新劇という言葉も死語に近うおますが、映画では常に脇役だった女優さんでおます。溝口健二監督の『雨月物語』の京マチ子に付き沿う乳母、萩原遼監督の『紅孔雀』シリーズの魔法使いのおばあさん、加藤泰監督の『明治侠客伝・三代目襲名』の木屋辰二代目の姐さんなど、きらびやかな旬の女優たちの色気とは程遠い存在でおますが、『ぼんち』では船場の女系三代の格式とプライドがある冷酷なまでの非情さを体現しとります。
 この毛利菊枝とニコイチのような存在で登場する娘(つまり、ぼんちの母親)の山田五十鈴も、台所仕事で嫁の玉緒をいびる見せ場があるものの、毛利菊枝の厳然とした存在感に完全に影に隠れた感じでおます。
 この毛利菊枝を見て、もし今、この作品の再映画化があった場合、「お家(え)はん」と呼ばれる老女を演じられる女優はおらんかいなと頭をめぐらせてみたのでおますが、誰もおりまへん。おばあさん役者が払しょくしているのでおますな。年をとっても、皆きれいきれいの女優ばかりで、間隙を縫うように出てきている唯一のおばあさん役者に樹木希林がいてはりますが、もちろん、この役は彼女のニンではおません。最近、老け役の多い泉ピン子ではなおのこと品格が保てまへん。

 この映画はシネマスコープ作品でおますが、残念なことに上映会場のスクリーン設備が完全でなかったためか、つまり、映画の上映サイズに合わせて上下の暗幕が移動しなかったため、シネマスコープサイズなのに、ビスタサイズの映画を観せられているようで、次に上映されたビスタサイズの『おはん』はまるでスタンダードサイズの映画のようで、これらは映画の内容には関係なく、上映する側の主催者の気配りのなさというものでおます。来年の上映時にはどうなっているのか、一応、アンケート用紙にはいらんことを書いておきましたけどぉ……。

2016-05-18

つっころばしの「三百六十五夜」

 三百六十五夜 160521


先の大戦終了から3年経った1948年製作の新東宝のメロドラマでおます。
 小島政二郎の小説を館岡謙之助が脚色、監督はまだ若かった市川崑でおます。映画は前編、後編の二部作で封切られておりますが、その後、総集篇として一本の映画にまとめられたようで、よほどヒットしたのか、普段とんと映画には縁のないわが母なども若いころに観たと言っておりましたな。
 今回、ボクが観たのもその総集篇のほうで、CS放送で流れたのをキャッチ。本来、前後編の2本の映画を2時間少々の一本の映画として観るのでおますから「あれ、辻褄合ってないじゃん」なんてところもおますねんけどね(笑)

 戦前からの二枚目スター・上原謙と同じく戦前からの娘役スターだった山根寿子との悲恋ドラマで、この2人に上原謙を追いかける高峰秀子が絡むという塩梅。デコちゃん、この映画の6年後に小豆島の先生を演じとります。歴史に残る東宝争議があった年の映画で、
争議がきっかけで山根寿子、高峰秀子は長谷川一夫や大河内傳次郎らとともに所属していた東宝から離れ、争議がきっかけで生まれた新東宝の映画として出演したのでおますやろね。

 それはさておき、この映画のイケメン・上原謙は、この手のドラマらしく、つっころばしでおます。
 つっころばしーちょっと肩でもつつけば、すぐに転んでしまいそうな色男で、金のない頼りなさが身上で、そのくせ色恋には積極的ながら何の力もない男のことでおます。
 昔から色恋のドラマで主人公は多く、つっころばしが定石で、この映画も伝統的な定石を踏まえているわけでおます。

 上原謙さん、親が決めた政略結婚の話から逃れて大阪から東京に逃げてきます。結婚の相手は金持ちのお嬢ちゃんの高峰秀子というわけで、デコちゃん、珍しく大阪弁に挑戦しとります。活発なお嬢ちゃんで、父親が東京にも事業の手を延ばしているため、時々東京にも現れるという設定で、この高慢で気の強いお嬢ちゃんを徹底的に嫌い抜いている上原謙さん、デコちゃんが慣れない大阪弁を駆使しているというのに、大阪出身の青年はなぜか標準語なのでおます。

 さて、上原さんが下宿先に選んだのが、閑静な住宅地に住む山根さんチでおます。実の母親の吉川満子となぜかチック症の気があるみたいなお手伝いさんの一の宮あつ子の女ばかりの家でおます。上原さん、山根さんをひと目見て山根さんに強く心を魅かれちゃいます。早速、つっころばしの本領発揮でおますな。

 ところが……。


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2016-05-13

お姫さま女優の「あの空の果てに星はまたたく」

あの空の果てに星はまたたく160507

 かつて東映時代劇で活躍した丘さとみ主演の現代劇がCSで放送されたので、観てみました。
 日本が高度経済成長を果たす直前の1962年の製作(東映東京)で、脚本が新藤兼人、監督が戦後の左派映画の旗手だった関川秀雄でおます。

 同じ時期の子ども時代を送ったボクは、まさに子どものころ、この作品を観た記憶がおますが、当然のことながら映画のタイトルと主演女優が誰であったか以外、コロッと憶えとりまへん。瀬戸内海の小さな島に生まれ育った少女が、家族や恋人、女友達との関係で紆余曲折の末、力強く生きていこうとするお話でおました。

 丘さとみは東映ニューフェースとしてラジオ局勤務から女優に転身し、ニューfフェイス一期下の大川恵子、桜町弘子とともに「東映三人娘」として総天然色、ワイド画面を得て成長期にあった東映時代劇を彩った東映城のおねえちゃん。男性が主役の時代劇にあって、相手役としてお姫様や武家娘、町娘などさまざまな役柄で時代劇に色を添えていたのでおますが、三人娘の中でいち早く単なる型どおりの相手役から脱し,マキノ雅弘監督の『清水港の名物男・遠州森の石松』(1958年)の遊女・夕顔、内田吐夢監督の『大菩薩峠』三部作(1957~59年)の巡礼娘・お松や同じく内田監督の『宮本武蔵』五部作(1961~65年)の山の娘・朱実などで演技開眼したといわれております。
 
 「あの空の果てに星はまたたく」は、『裸の太陽』(1958年、監督・家城巳代治)、『素晴らしき娘たち』(1959年、監督・家城巳代治)に続く彼女の現代劇主演映画で、貧しくとも健気に生きる女の子という役柄は一貫しとります。

 だけれども・・・・・・・。


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青山彰吾

Author:青山彰吾
 日本映画を中心にしたコーナーです。
 ただし、取り上げる映画は偏っています^^
 
 

最近はこんなんです^^
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